2010年9月10日金曜日

ディベートがもたらすもの

ジョギングを再開(?)して、3ヶ月弱。継続している。睡眠も万全、体調も万全だ。

さて、Apple社が世にもたらしてくれたiPodのお陰で、世界中のニュースやラジオ番組を簡単に聴くことができるようになった。最初は興味本位で聴いていたが、今ではジョギング同様、日課になっている。移動に多くの時間がとられる朝夜の通勤時には欠かせないアイテムだ。

このようなルーチンワークをこなしている中で気がついたことがある。

アメリカと日本での「テーマに対する検証の仕方」だ。

日本の番組は(田原総一朗さんのような番組は少ないほうだろう)マジョリティを代表する専門家や意見を持つ人を登場させ、一方向から検証することが多いように思う。バラエティであっても、報道であっても、お互いの意見をぶつからせることは進行上よろしくないのか、たとえ、意見を異にする人たちが同じ場にいあわせても、あたりさわりのないことをいって終わらせることが多いように思う。

一方、アメリカでは、多くの番組で何らかのテーマについて検証する場合、ほぼ必ずといっていいほど、ディベート形式がとられる。賛成派と反対派・・・意見を異にする人たちを登場させ、その場で議論をさせる。たとえ、国民や専門家の80%以上が賛成意見に傾いていたとしても・・・だ。司会者は、中立的な立場を心がけ、お互いの論点を上手に引き出す。ただし、結論は出ないで終わる。

この検証の仕方の違いがもたらすものはなんだろうか?


ふと考える。


そこには、ものすごく大事な違いがあるのではなかろうか・・・。


ディベート中心の番組では、見てる者は自分で考えようとする。そう、答えとして、すがりたいハッキリとしたものがそこにないからだ。聴いた者は、自分の価値観で判断するようになるので、賛成する者もいたり、反対する者も多数でてくる。

逆にマジョリティ意見を持つ専門家がしゃべる番組を見たらどうなるだろうか。見ている者は、そこに、すがりやすいハッキリとした意見が存在するので、それが”正解”だと思ってしまう。日本国民は良く「横を気にする国民だ」と言われる。

「みんながそう思っているなら、自分もそれでいいや。いや、そうじゃないとまわりからたたかれるだろうし・・・。いやいや、きっとそれが正解に違いない。」

番組で言っていることこそが正解であり、それこそが自分が持つべき意見だと流されてしまわないか? でも、もし仮に、このマジョリティの意見が間違っていたらどうなるのだろう。末恐ろしいことだ。


最近、円高問題では日銀が一方的にたたかれている。

最近、小沢さんが一方的にたたかれている。


本当にそれでいいのだろうか・・・。日本人は、考えることをやめてやしないか。


そんな生意気なことを、ふと、思った。

2010年9月5日日曜日

めまぐるしく変わったグランドラピッズの天気

9月4日(土)午前10:45分、シカゴ空港にてこれを記す。

いよいよ日本に帰国だ。

今回は4日間の比較的短い滞在となったグランドラピッズ。運悪く大きなハリケーンがやってきた。お陰でほぼ毎日天気が悪く、強い風と雨ばかりの歓迎を受けることとなった。


そんな中にあっても、早朝ジョギングだけは怠らずに続けてみた。走る時間が、朝5時のときもあれば7時の時もあったりとマチマチだったおかげで、真っ暗な暗闇を走ることもあれば、朝日を拝みながら走ることもあった。

朝のジョギングの最中に、結構、色々な写真が撮れたので、それらをここに貼っておく。

【朝5時です】



【朝6時半頃です】



【雨がしとしと降っていた朝です】



【帰国する日の朝8時:ハリケーンが過ぎ去り爽快な朝でした。でも寒かった】


最後の写真を見ても分かるとおり、もう夏も終わり・・・。帰国の日、最終日にそんな雰囲気を肌で感じた。
(一方でこの日の同時刻、東京の気温を見ると35℃と書いてある。グーの寝も出ない・・・。)

書評: 3 行で撃つ <善く、生きる>ための文章塾

  「文章がうまくなりたけりゃ、常套句を使うのをやめろ」 どこかで聞いたようなフレーズ。自分のメモ帳をパラパラとめくる。あったあった。約一年前にニューズ・ウィークで読んだ「元CIAスパイに学ぶ最高のライティング技法※1」。そこに掲載されていた「うまい文章のシンプルな原則」という記...