2015年3月3日火曜日

言論の自由

月刊VOICE2015年3月号の記事の宇野重規の記事・・・は、普段、考え切れていない事柄に気づかせてくれる良い記事だった。そのタイトルは、「言論の自由」、その痛みと覚悟

『十八世紀の哲学者ヴォルテールは、自身がはげしいカトリック教会批判で一度は国外生活を余儀なくされた自分であるが、”あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る”という言葉を残している

・・・(中略)・・・

ポイントは、自分にとって不快な意見であっても、あるいは自分にとって不快な意見こそ、それを主張する権利を認めなければならないということである。

・・・(中略)・・・

宗教戦争の過去をもつ欧州においては、多数派の宗教も少数派の宗教も等しく批判の対象となる。例外的に批判を免れるものをつくりだせば、やがてそれが暴走する可能性を否定できない。自らが信じるもの、権威とするものを批判されれば誰でも腹が立つが、それを認めてこそ自由で民主的な社会は保持される。このような信念に支えられた欧州の”言論の自由”とは、血塗られた過去の経験に基づく原則であって、単なる理想論ではない』

宇野さんが示す歴史から気づかされるのは、「言論の自由」と言っても、ヨーロッパの人が信じるそれと、日本人が信じるそれとは別物ではないか、ということだ。その違いに気づかされる顕著な事例として、昨年末のテレビ番組における人気歌手のふるまい(権威・権力を揶揄していたのでは?と騒がれた)事件を取り上げている。この事件の是非はともかく、著者がいいたいのは、つまり、今の日本はヨーロッパに比べて、”反対”に対する許容度がだいぶ低いのではないか・・・ということだ。

そういえば、以前、「飛行機に泣きわめく赤ちゃんを乗せないで欲しい」と書いた女性が、社会的に袋たたきにあった。確か、それも月刊VOICEだったと思うが、結局、その寄稿がもとで、その雑誌から下ろされていた。子を持つ親として個人的にどうかと思う意見だが、その是非はともかく、”こうした発言をした人を社会的に袋たたき”にして、”たたきつぶす”のには、違和感がある。「あれもこれも発言することすら許容しない」を繰り返していくと、それがいきつく世の中は、発言許容度最小公倍数の世の中だ。すなわち、反対意見を出すこと・・・つまり、マイノリティーの意見を持つことがほとんど許されない世の中になっていってしまうんじゃないかと不安になる。それってある意味、カルト教信者になるようなものじゃない?

もちろんヘイトスピーチには絶対反対だが、基本的には不快な意見でも、反対意見を出す人をたたきつぶす世の中にしないほうが、社会にとってメリットのあること・・・そんな世の中の方が健全な気がする。日本には意見を戦わせる文化がないから、そもそも、仕方がないことなんだ・・・と言われれば元も子もないが、やはり、少しくらいは欧米のディベート文化を取り込んでみてもいいんじゃないだろうか・・・。

宇野さんの記事を読んで、そんなことを感じた。

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