私が好きなNHK番組に
100分で名著というものがある。先日、そこで司馬遼太郎が取り上げられていた。著書の代表作「花神」に登場する主人公「大村益次郎」にまつわる解説者の話が印象的だった。
『多くの日本人は“これまでこうしてきました”、“みなさんそうなさいます”からといった理由で、既存概念から脱却できずにいた。これに対し、大村益次郎は、合理主義の信徒だった。そのお陰で戦いで勝ち続けた。』
この発言は、人間いや我々日本人は、感情に走り過ぎて、あるいは、横(他人)を見過ぎて、損してることが結構あるのではないか、という示唆に富んでいる。もちろん合理的・論理的であることが常に正解とは限らない。事実、大村益次郎は人間的にはダメダメだったらしい。だが、余計な感情を廃し、合理的・論理的に物事を見る行為には我々が暮らしよくしていくためのヒントが隠されているのではないかと思うのだ。これこそが、私が本書に手を出した理由である。
著者:佐藤 優
出版社:朝日新書
⚫️創価学会と公明党を客観的に紐といた本
創価学会の正体を語ってくれている本だ。公明党とのつながり、その奥底にある決してブラさない軸、当該宗教における池田大作氏の位置づけ、彼や創価学会、公明党が果たしてきた役割などを、“偏見を入れずに”解説している。
“偏見を入れずに”と、なぜ言えるのか?それは著者が、あの佐藤優氏だからである。しかも、佐藤優氏自身、既に別の宗教に入信している身である。そう、プロテスタントであり、肩入れするような立場でもないのだ。
⚫️佐藤優氏が本書を書いた理由
そう考えると逆に「なぜ、彼がこんな本を?」という疑念がわくが、これについては冒頭で私が述べたものに似た趣旨の発言を、本書の中で述べている。
『キリスト教とは、同時に他の宗教を信じることが認められていない。したがって、私は、当然、創価学会員ではない。また、創価学会におもねる必要もない。しかし、同時に私は、偏見を極力排除し、創価学会を等身大で理解し、そこから学びたいと思っている。それは私の理解では、創価学会が生きている、本物の宗教だからである。』(本書より)
ちなみに、私も創価学会には接点はない。良い印象も悪い印象も持っていない。強いて言うなら「得体の知れない団体」という、ややもすれば負の印象を持っていると言えるかもしれない。若い頃、私が塾でバイトをしていた関係もあって、そのときの教え子に「集会に来てみませんか?」と誘われて、その集まりに参加したことがある。そこで見た、大勢の人が集団で何度も一斉に「何妙法蓮華経」と声に発していた光景だけが、いっぺんの記憶として残っている。
⚫️異教徒が異教を語るユニークさこそが本書最大の魅力
宗教を異にする佐藤優氏自身が他の宗教について語っているということ自体が異色だが、キリスト教との類似点について語っているのは佐藤氏ならではだと思う。キリスト教布教の歴史と創価学会の布教の歴史を対比させているのは佐藤氏くらいではなかろうか。
そして、さらに、政教分離がどうの・・・と言われる中で、あえて「むしろ、公明党と創価学会はお互いの距離を、外部の人間の目にも見える形で縮めるべきだと主張したほうが日本のためになる」という発言は、興味深い。なぜ、そんな主張をしているのか、についてはぜひ本書を読んでもらいたい。
⚫️読んで見て、思った通りに得られた学び
本書を読んでみて、「びっくりぽん」(あさちゃん風)だったのは、以下の3つである。
- 佐藤優氏がプロテスタントだったということ(実は知らなかった)
- 政教分離に対して間違った認識を持っていたこと(公明党は政教分離スレスレだと思っていた)
- ナショナリズム※も、グローバリズムも、今の世界が抱えている課題解決にはたり得ないということ。逆に創価学会が説く、非暴力と対話に基づく平和主義に解決にヒントが隠されているのではないかということ
※ナショナリズムは自分の国の習慣と価値観が他の国のものより優れているという考え方
⚫️誰が読むべきだろうか
佐藤優氏曰く、次の読者を想定した執筆したとのこと。
創価学会に反感を覚える人、宗教に無関心な人、熱心な創価学会員、両親が創価学会員である関係で自分も学会員になっているが活動には熱心でない子と、恋人が創価学会員であるために両親から交際をやめろと言われている人など。
宗教がどうのこうのとか、創価学会がどうのこうのとかということを差し置いて、まず今事実として誰が何をしようとしているのか、それはどんな意味を持つのかについて認識することは決して損ではなく自分にとっての正しい答えを導き出す近道にもなり得ると思う。
まぁ、装丁やタイトルには、正直、手にとって読もうと思いづらい雰囲気があるけどね。