「生かされているが、生きてもいるんだなぁ」 本書を読んで、そう思った。
「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」 (講談社現代新書)
特攻を命じられ、生きて帰ってきた、、、しかも7回。精神的・肉体的にも逃げ場のない世界、そんなイメージしか湧かない戦時中に、何をどうしたらそんなことが起きるのか? 「お国のために死ぬのは当然」という考え方に染まらなかったのか、いずれにせよどうして生きて帰ってこれたのか、とにかく疑問ばかりだ。
読んでみてどうだろう。最初に感じたのは、自分の学んできた歴史、いや私の考えにいかに偏見があったかという驚きだ。今日まで、次のように考えていたのだ。
- 特攻は絶対に逃げられないもの
- だから選ばれたら最後、悲しくもみな往生際よく突撃して言った
- 当時の情報統制は酷いと言っても今の北朝鮮ほどではないと思ってた
- リーダーこそ死を積極的に受け入れ、見本を示して行動した
- 特攻の効果は低かったと言ってもそれなりに戦果はあった
- 当時の上層部のだからこそ、特攻を強く推進していた
- 敗戦確定後は政府も国民も兵隊さんに優しかった
これら全てがひっくり返った。
ここまでするのか。情報統制の酷さには開いた口が塞がらなかった。本書の主人公、佐々木友次氏は、第一回目の特攻で、めぼしい戦果を得られず、しかも(上層部の期待に反して)生きて帰ってきたにもかかわらず、当時の新聞には「見事な成果、見事に死んだ」といった類いの見出しが躍っていたのだった。家族も死んだと思い葬式をあげたとある。以後に特攻を行った際にも、前回の死亡記事はまるでなかったかのように佐々木友次氏の名前を取り上げて「見事に、、、」と言った見出しが踊る。佐々木氏は内緒で実家に生存を匂わす手紙を送っていたというし、茶番も茶番である。
佐々木氏はいう。「人には、みなそれぞれに【寿命】がある。だから(自分で死のうとしない限り)簡単には死なない。自分が生き延びてこれたのは、きっと自分がそういう【寿命】だったからだ」と。これが佐々木氏の持つ死生観だ。
しかし、この言葉を受けて、次に私が考えたのは「生き延びたのは偶然か必然か」という点だ。全てが偶然であるはずがない、と。私が出した答えは、必然が5割、偶然が5割。(ちなみにこれは私の勝手な推測なので「お前は戦争というものを全くわかってない」という方がいるであろうことは百も承知している)
具体的には、佐々木氏に限って言えば、彼の生死を分けたのは、先の「死生観」と「(生き死ににかかわらず)役に立ちたいという意思」と「故障や不意の攻撃に見舞われなかった運」の3つが要素としてあったと思う。自分でコントロールしにくい要素ばかりだが、実はその根底にあった要素「本人が鍛錬して得た技量」が、大きなウェイトを占めていたのではなかろうかと、ふと、そんな考えを持った。技量があったからこそ、特攻の効果がいかに小さいがわかったし、技量があったからこそ、直感も手伝って生きて帰って来れたのではないか。
それは次のように言い換えられないか。一見、世の中「これはあの人のせい」「あれは環境のせい」「自分ではどうしようもなかった」ということばかりに見えて、実は意外に自分自身がコントロールを握っている場面が少なくないと。
先日、息子が来ていたTシャツにこんな英語の文句が書かれていたのをふと思い出す。Life is a journey. The good news is you are the pilot. (人生は旅だ。いいニュースは、あなた自身がパイロットということだ。)
と、まぁ、色々な気づきを与えてくれた本書だが、この本がいいなと思ったのは、主観と客観のバランスの良さだ。
「(逃亡したも同然の)当時の特攻を命令した上司を憎んでないのか?」著者は聞く。佐々木氏は答える「いや、そんなことは思ってませんよ」と...。
著者は明らかに(多くの人同様)特攻に対する嫌悪感を抱いているが、では当の本人はどう思っていたのかというところを、脚色せず、インタビューした内容そのままに掲載してくれている。
戦争は悲劇だし、特攻は最悪だ。2度とあってはならない。そういう学びも当然ある。だがそう結論づけるのは簡単だから、私はプラスアルファを読み取りたかった。その内容は先に書いた通りだ。皆さんも皆さんなりの結論を出すために、読んで見てはいかがだろうか。