以前、巨大な鉄球が自分の腹の上に落ちてくる夢を見て、それが当たった瞬間に「おえっ!」と声を出して、目を覚ましたことがある。リアルと非リアルの曖昧な境目を体感した瞬間だった。
そんな曖昧さを持ち合わせた本だ。
私は今年で46才になる。えっ、今頃、と思うかもしれない。文学作品は若い頃にいくつも読んだが、実は「人間失格」は読んだことがない。いや、「人間失格」というより、いわゆる太宰作品は一冊も読んだことがない。「暗い」というイメージが強く、代表作と言われる「人間失格」はタイトルからして滅入りそう。わざわざ気が滅入る本を読めるか、そう思っていたからだ。
ではなぜ今頃になって、、、となるわけだが、又吉直樹さんの太宰治好きという話もある。文学作品を改めて読み直そうと思ったせいもある。この年齢になって、精神がだいぶ落ち着き、精神が落ち着いてきたせいもあるだろう。
『主人公の葉蔵は小さい頃から、道化を演じ周りを笑わせてことを荒だてないようにないように生きてきた。笑みをたたえていた人が自分に怒りの目を向けるその感情の変化に恐れおののいていたからだった。そうやって人の目を気にして、生きてきた人間が、成長していくと大人になった時、どんな人間になるのか、、、』
何がこの作品を有名にさせたのか? 爽快な気分になる内容か? そうではない。むしろ、読了後は不快感が漂った。ワクワクさせるストーリーなのか? それなりに。ワクワクという言葉は正確な表現ではないが「主人公は一体どうなっていくんだろうか?」という思いがページをめくるパワーになっていたことは間違いない。
ただ、これだけの感想を聞くと「すごく読みたい」とは思えないだろうが、こうした感想とは別に「凄いな」と思ったことがある。それはリアルさだ。あたかも主人公の頭の中をリアルタイムでのぞいているかのような、、、不快感が自然に湧き出るほどだ。
加えて、今の世にも通じる「本質的な問い」が、そのリアルさを一層、際立たせる。
『けれども 、その時以来 、自分は 、 (世間とは個人じゃないか )という 、思想めいたものを持つようになったのです 。そうして 、世間というものは 、個人ではなかろうかと思いはじめてから 、自分は 、いままでよりは多少 、自分の意志で動く事が出来るようになりました 。』(本文より)
小説なのに、私自身も何かハッとした瞬間だった。他人に何か嫌なことを言われると、その瞬間、言われた当人はそれが世間の声と勝手に妄想してしまうことはよくあると思う。主人公のように自分に自信がない、人の目が気になる、、、がそういう傾向が強いだろうが、そういう人にとっては、何か言われるたびもビクッとして、、、最後は狂人にでもならねば生きてはいけないのだと思う。
そう考えた時、太宰治がこの作品を書き終えた1ヶ月後に入水自殺をしたと言うが、恐らくは感受性豊かで、そんな性格の持ち主であった著者である太宰治自身、他人の目を気にする当時に、生き続けるのは耐えられなかったのではないか、ふとそんなことを感じた(これはあくまでも私個人の超勝手な解釈であることを容赦願いたい)。
ちなみに現代も何か少しでもあるとSNSで炎上する時代であり、その意味ではある側面は太宰治の時代よりも窮屈な時代だと思うが、もし彼が生きていたらどう思っただろうか。
恐らくこの歳で読んだからそう感じることができたのだと思う。若い頃に読んでいたら、「なんて不快な」「何が言いたいんだ」と、それだけで終わっていたに違いない。
ところでもう一つ、感心させられたのが、その技法。実は主人公の話は、第三者が主人公の書いた手記を読んでいる体で、書かれていたのだということに最後の改めて気づかされる。そのような視点を与えることで、こちらとしては何か主人公を、もう一度俯瞰的に観察できる機会をもらえる。相当に練り込まれた作品なんだろうなぁということが伝わってくる。
この歳で読んだ方改めて文学作品の密度の濃さを体感させてもらった。満足感いっぱいだ。
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