2011年12月12日月曜日

失敗を許容しない文化


2011年12月11日付の日経新聞朝刊に興味深い記事があった。

「真珠湾の埋もれた教訓」というものだ。趣旨は”失敗”から学べる、いや、学ぶべきことがたくさんあるにも関わらず、(個々の学者による検証はあるにせよ)日本政府自体は、先の大戦についてそうした取組みをほとんど行なってきていない、というものだ。

なるほど、それは意外であり残念なことだ。

記事は、”失敗からの学び”が行われてこなかった理由について、更に元外務省幹部の次のコメントを載せている。

『過去の失敗を総括するにはだれがいけなかったのかを特定し、事実上、名指しで糾弾しなければならない。日本にはそういうことを嫌う集団意識がある』

この意見については半同意・半反対だ。

なるほど「失敗を嫌う」「失敗を許容しない」というのは、リスクマネジメントコンサルタントという職業をやっていて私もそう感じる場面が多々ある。日本人は事故や災害が起きないように細心の注意を払う。市場に対しても時間を犠牲にしてでも十分に検証された新製品を出す傾向が強い。しかし、その反面「万が一、事故が起きてしまったとき」に対する備えが弱い。「失敗を嫌う」「失敗を許容しない」文化の中では、無意識のうちに「失敗はあってはならない」「失敗したときのことを考えたくない」という思考プロセスが働くからではないだろうか。

ちなみに、この「失敗を許容しない文化」という点については、勝間和代氏の書籍「真面目の罠」でも色々な観点で言及されている。

ただし、海外で仕事をした者として感じるのは「”名指しでの糾弾を嫌う”のは海外こそ、そうだ」という点だ。海外では「人のせい」にしたがらない。ではどうするのか? 「仕組みのせい」にすることが多い。「仕組みが悪かったから、私は不正をしてしまったのだ」「仕組みが悪かったから、あの人は間違えたんだ」・・・こんな感じだ。こうした考え方は、責任の所在が曖昧になりやすいという反面、「失敗」を表沙汰にすることをあまり厭わない、というメリットがある。

私の考えでは、日本は”人のせい”にする傾向がものすごく強い”仕組みのせい”にするなんて言語道断、必ず責任は人に帰属すべきだろう・・・と。責任の所在がはっきりするが、罰を恐れて失敗を公にしたがらないし、安易なトカゲのしっぽ切りにも使われやすい。(別に、”人のせい”にすることが悪いと言っているのではないが、何でもかんでも”人のせい”にすることは大きな弊害もあるのでは、と思っている)

むしろ、こうした風土こそが「日本人が失敗を反省したがらない理由」ではないだろうか。なんて、ちょっと偉そうなことを言ってみたり・・・。

【関連リンク】
書評: 失敗の本質
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