2011年8月5日金曜日

感想文: 「ニッポンの書評」

期せずして書評が多くなってしまった、わたしのブログ。本を読んだ感想を書いていれば、書くネタに困らない・・・、書く練習になる・・・、考えを整理する訓練になる・・・、備忘録になる・・・、というのが主な理由だ。ただ、こうした執筆を続けていると、

「”書評”って何だろうか?」
「自分の文章を、いったいぜんたい”書評”って呼んでいいのだろうか?」

と、疑問を持つことがある。

そんな疑問に直球で答えてくれる本があった。

タイトル: 「ニッポンの書評」
価格: 740円

■”書評道”を求めて”書評”を切り捨て御免


この本はプロ書評家、豊崎氏が”書評道”を追求した本である。今日、我々はあらゆるメディアを通じて書評を目にする。雑誌、新聞、ブログ、書籍、ラジオ、テレビ・・・もはや読み手よりも書き手が多いのでは?と言われるほどだ。書評家が溢れかえる中、著者が自身のレゾンデトール(存在意義)を問うべく、様々な観点から書評に対する考察をし、「書評はどうあるべきか」について激白している。

この本の最大のウリは、プロ・素人を問わず、ちまたに溢れる書評を勝手に”切りまくっている”点だろう。

たとえば著者は、村上春樹氏の「1Q84」の書評を書いた黒古一夫氏(文芸評論家、筑波大学大学院教授)を、次のように断じている。

「黒古氏は、たった750字という限られたスペースの中で、よりによってストーリーの結末を明かしているんです。字数少ないんだから、その部分こそを削ればいいのに・・・(中略)・・・黒古氏は、自身のブログにこの書評を全文アップすることでさらに被害を拡大。あまりの驚きから思わず(ブログの)コメント欄に書き込みしちゃったトヨザキです。」

もちろん、こうした”切り捨て”に対しては、複雑な思いを持つ人もいるだろう。「持論を展開するのは構わないが、リアルタイムな反論ができない紙媒体に、人を勝手に引きずり込み批判するのは何様か」と。ただ、著者は自分の書評も掲載して、一応は、ディベート的な体裁をとろうという姿勢を見せている。

この勇気ある”切り捨て”は、豊崎氏がプロの書評家として道を極めてきた自負の裏返しでもあると思う。いずれにせよ、なかなかできることではないことをやった、という点で私は著者を評価したい(まぁ、わたしが、切られているわけでないので、読む側の立場からすれば面白いわけだし・・・)

■書評の目的は何か?

さて、書評とは結局なんなのだろう? 豊崎氏は彼女自身、やはり同じように”書評”について論じている数々の書評本を読んでみて、次のような”気づき”を得た、と述べている。

「批評は対象作品を読んだ後に読むもので、書評は読む前に読むものだということです」

なるほど、わかりやすい。つまり書評は、これから本を読もうとしている人に「本当に読むべきか、どうか」の判断を手助けするものである、ということだ。残念ながら、メディアに掲載されている書評の中には、いわゆる”ネタバレ”をするだけして購買意欲を減じさせ、こうした役割を必ずしも果たしていないものがある、と豊崎氏は論じる。

で・・・である。このブログにおけるわたしの”書評(モドキ)”は、いったい何なのだろうか。

「書評なの?批評なの?」

■で、私のは書評?それとも単なる日記?

著者の定義に従えば、わたしの文章は”感想文”になる。感想文とは”書評”に昇華しきれていない素人の文章のことだ。与えられた字数制限の中で、適度に他の著者の本を引用し、自分なりの深みある考察を述べ、読むモノの興味を強く惹く・・・そうしたレベルのモノが書けるようになって初めて書評というわけだ。

ただし、豊崎氏は、読み手の読書意欲をかきたてることができるモノであれば、どんな文体だろうが、内容だろうが、それで十分書評なのだとも強く主張している。

で、わたしのは感想文?それとも書評?・・・その答えは如何に・・・。

関連リンク
黒古一夫BLOG(豊崎氏に批評を受けた教授のブログ)

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