2011年4月17日日曜日

書評: 三陸海岸 大津波

23メートル・・・これは何の数字かお分かりだろうか?

東日本大震災で起きた”大津波の高さ”と思う人もいるかもしれない。それも正解だが、ここでとりあげたこの数字は、昭和8年(1933年)に起きた”昭和三陸地震”の際に、三陸海岸に押し寄せた波の高さだ。

知っている方も多いだろうが、実は、三陸海岸(北地方の太平洋側、青森県南東端から岩手県沿岸部を経て宮城県の牡鹿半島までの海岸の総称)は”津波の歴史”と言っても過言ではない。今回は、この三陸海岸の津波の歴史に焦点を当てた本を読んだ。

「三陸海岸大津波」
吉村 昭著 文春文庫出版 438円
(2004年3月10日初版)


■最初はやはり半信半疑だった

もともとこの本、東日本大震災後に、日経ビジネスだったか週刊ダイヤモンドだったか、何かの雑誌で紹介されていたのを読んで知ったのがきっかけだ。「震災発生前に読むならともかく、発生後に読んで、事後的に何を学べると言うんだろう」と正直思ったが、紹介記事のすすめに圧倒されて、思わず買ってしまった。ちなみに、この本、震災後はプレミアがついているらしく、Amazonで入手しようと思っても、通常価格では手に入らない。私の場合は800円の値がついていたものを買った。

Amazonで発注して数日後に手元に届いた。本を手にとる段になっても「東日本大震災以前にそんな大津波があったなんて信じられない」「記録が残っているんだという話にしても、だんだん話に尾ひれがついて大げさな噂になっているだけではないの?」と思っていた。

しかし、この本を読んでみて、そういった考えがいかに浅はかなことであったことが良くわかった。”いい加減な噂”どころか、昔の津波被害について、克明な記録や様々な角度から検証できる記憶が多く残っていたのである。当時の津波の発生状況、被害状況、国の対応状況、そして、被災者の被災した瞬間の話などを、著者が実際に現地に足を運び、資料を調べ、また直接に被災された方々に話を聞いてまとめたのである。

著者の”あとがき”での次のような記述が、情報収集の大変さもさることながら、この本の重さを感じさせる

『・・・さすがに明治29年の津波のことを知る人は皆無に近かった。体験した方がいるというので、その家を訪れると、座敷で寝ていて、話をきくのを断念したこともあった。結局、明治29年の津波について話を聞くことができたのは、鳥ノ越の早野幸太郎氏と羅賀の中村丹蔵氏の2人だけであった。私が両氏を訪れた45年に早野氏は87歳、中村氏は85歳であった。現在はお二人とも故人になられ、おそらく現在では明治29年の津波のことを知る人はなく、私は幸いにも両氏から津波のことを聞くことができたのである・・・』

■明治29年の”明治三陸地震”と昭和8年の”昭和三陸地震”

吉村氏によれば、三陸沿岸をおそった津波は数知れない、と言う。本で紹介されているだけでも西暦869年に始まって、1585年、1611年、1616年、1651年、1676年(以下略)・・・と、おおざっぱに30年~50年周期で大きな津波が襲ってきている。これだけでも、2011年3月に起きた東日本大震災に伴う三陸沖の大津波は”想定外”とは言い難い、という印象を与えられる。

こうした津波の中でも、とりわけ著者が関心を寄せて、深く調査を行い紹介しているのが明治29年(1896年)の”明治三陸地震”と昭和8年(1933年)の”昭和三陸地震”に伴う大津波である。概要のみを以下に紹介しておく。

-”明治三陸地震”に伴う大津波
 ・地震発生の時期: 明治29(西暦1896)年6月15日
 ・地震発生の時間: 夜8時頃
 ・津波の高さ: 気仙沼あたりで24.4メートル(ではなかったかとの推測)
 ・死者: 約2万人

-”昭和三陸地震”に伴う大津波
 ・地震発生の時期: 昭和8(西暦1933)年3月3日
 ・地震発生の時間: 午前2時半頃
 ・津波の高さ: 23メートル(ではなかったかとの推測)
 ・死者: 2,995人

偶然ではあろうが、昭和三陸地震は3月3日・・・奇しくも今回起きた東日本大震災は3月11日・・・。発生時期が非常に似通っている。東日本大震災で被災された方々は津波そのものはもちろんのこと、寒さに苦しめられていた報道が目立ったが、昭和三陸地震の際もやはり大変だったようである。「携行して持って行ったおにぎりがすぐに凍ってしまった」といった記述が印象的だ。

■涙が止まらない

先述したように、著者は実際に津波に巻き込まれた瞬間について、その後に残された作文や実際に会われた方の声を紹介している。私は涙が止まらなかった。(悲劇を繰り返さないためにも、こういった悲劇をより多くの人が知ることは義務だと思うので、勝手ではあるが)その1つをここに紹介しておく。

『(略)・・・家がグラグラと激しく揺れておりました・・・(略)・・・びっくりして子供達を起こし、股引やシャツを着せ足袋をはかせていますとさっきのものすごい音が沖の方から聞こえてきました。きっと津波に違いないと思い、4人の子供達を引き連れて一歩戸口を出たとたん大きな何が押し寄せてきてメリメリと家が倒れ、あわやと思うまもなく、私も子供達も下敷きになったまま流されてしまいました。水が引いてから子供達を読んでみますと、低く答える声がします。同じ屋根の下敷きになったまま兄弟同士手を取り合って叫んでいるのでした・・・私は胸が張り裂けるように悲しくなりましたが、体を押しつけられているのでどうしても這い出ることができません。そのうちに「弟が冷たくなって口をきかなくなった」といって兄の方の泣く声がしました。「もう少しだから我慢しておいでよ」と元気づけておりましたが、今度は兄の方が・・・(略)・・・』

■何を学んだのか、学ぶべきか

それにしても不思議だと思わないだろうか?何十年周期かで繰り返されている事象である。これだけの悲惨な事件である。そして、後生に伝える義務があると、当時、つらいことではあったが、学校では被災した子供達に感想文を書かせたりもしている。そうした記録が数多く残っている。にも関わらず、2011年3月11日の午後2時・・・昼間に起きた東日本大震災が引き起こした津波により、死者1万3千人・行方不明者1万4千人の被害を出した。

吉村氏は、(2004年に出したこの)本で次のように触れている。

『・・・(過去の歴史から)・・・大津波が押し寄せれば、海水は高さ10メートルほどの防潮堤を越すことはまちがいない」

本によれば、明治29年の津波を経験した後、多くの人たちが高台へ移動したという。しかし、時間の経過と共に、再び低地へ移り住むようになった人が少なくないという。漁港の町である。港近くに住居がないと不便なのだろう。そして昭和8年の悲劇が繰り返された。

そして、2011年東日本大震災が発生して1ヶ月後の4月11日、日経新聞朝刊には次のような記事が掲載されていた。

『国土交通省は、東日本大震災で津波被害を受けた被災地の山や傾斜地を削って整地し、災害時の避難拠点と成る病院や公民館などの用地とする検討に入った。津波被害を受けにくい高台に防災拠点を重点整備し、ここを中心に災害に強い町作りを進める』

我々は過去から何を学べばいいのだろうか。

この悲劇を繰り返してはならない・・・それだけは声を大にしていいたい。



=======2011年4月27日(追記)======
2011年4月27日の日経朝刊に、『自宅跡、自力でプレハブ「津波来たら逃げる」陸前高田 避難要請応じず』という記事があった。インタビューに対応した男性は「食事の時間以外は横になっているだけだったという避難所生活。このままでは病気になってしまう、と抜けだし、自宅跡でテント生活をしながらプレハブを建設した」とのことだ。

高台にも限りがあるだろうし、生活はやはり不便だろうし、自然災害を無理矢理おさえこめたり、完璧な対策を求めたりするのではなく、ある程度リスクを取りながら自然災害と共存する覚悟での対応が結局、もっともと現実的なのかな、と思った。

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